PARASOPHIA:京都国際現代芸術祭2015
京都で初めてとなると大規模な現代芸術の国際展、世界の第一線で活躍する作家が集結
国際交流と文化の集積地・京都を舞台に世界の第一線で活躍するウィリアム・ケントリッジ、 サイモン・フジワラ、アリン・ルンジャーン、ヤン・ヴォー、田中功起など作家36組が参加するPARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015。主な会場は、京都市美術館と京都府京都文化博物館。歴史ある建物の全館が現代芸術で埋め尽くされるという今までにない空間が展開されます。
美術館入り口にはやなぎみわの巨大な移動舞台車が出現。また、1階の大陳列室には高さ15メートルに及ぶ蔡國強の竹製の塔作品に京都の子どもたちが作った大量のオブジェが飾られるという大型作品が登場します。桜を見がてら立ち寄れるカフェやブックショップなども。 また、明治時代の洋風建築のディテールがそのまま残る重要文化財、京都府京都文化博物館 別館では、森村泰昌とドミニク・ゴンザレス=フォルステルの作品を展示。この場所だからこそ表現できる独特の世界観を構築します。さらに、京都芸術センターにはアーノウト・ミックの映像インスタレーション作品、二条城の北側に位置する1950年初めに建てられた店舗併存集合住宅のモデル堀川団地には、ピピロッティ・リストや笹本晃、ブラント・ジュンソーによる作品が出現。また、鴨川デルタにスーザン・フィリップスによる音の作品が設置され、河原町塩小路周辺にはベルリンの2人組ヘフナー/ザックス、書店のショーウィンドーにはリサ・アン・アワーバック、というように場所と作家の化学反応をみることができます。
PARASOPHIAは私たちのものの見方や態度によって大きく印象が変わっていくものかもしれません。単純にみえる外見の裏に遠大な思考の蓄積を発見したり、途方もないイメージの奔流が日常ととても近いものであったり、毎日の馴染んだ景色が全く新しいものにかわったり、そんなことを見つける喜びや自分の中の変化をお楽しみください。
会期中は作家や研究者など様々な人の対話を通して、作品を読み込んでいく「Parasophia Conversations」や「アクセスプログラム」を開催します。 また、蔡國強の作品の一部を作る「子どもダ・ヴィンチ ワークショップ」や会場の一部に出現した教室で、自分でプログラムを考えて使用できる「スタディルーム」など 参加者自身がPARASOPHIAをより楽しめるようになるきっかけをつくります。また、京都府京都文化博物館のフィルムシアターでの「シネマプログラム」では20作品以上の映画を上映。
PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015は、京都市美術館全館と京都府京都文化博物館を主会場に、京都市内の複数の会場で開催される、私たちの多くが待ち望んでいた大規模な現代芸術の国際展です。
この展覧会には、いま、世界各地で興味深い制作を続けている約40組の芸術家の作品が京都に集います。国際展の巨大化という世界的潮流の中で、10,000㎡以上の展示スペースを確保しながらあえて36組という規模で参加作家への十分な展示スペースの提供と細やかな支援を重視した、大き過ぎない、京都という都市にとっての適正規模となるでしょう。
PARASOPHIAは準備期間の2年間を通じて参加作家のほとんどを京都に招聘しました。作家たちは京都の歴史や文化遺産からだけでなく、人々の暮らし方からも多くのものを読み取り、京都と関わることで新しい作品に挑戦しました。京都市内の場所と出会い、その場の人々や歴史と対話することで新しいビジョンを得た作家たちもいます。作家たちの調査に協力した人たち、彼らと出会い対話を交わした人たちにも変化がありました。そしてその2年間を通じて数多く開催してきたオープンリサーチプログラムやパブリックプログラムは、「私たちが知らない興味深い思考や表現が世界にはたくさんある」という当たり前の事実を多くの方々と共有していくプロセスでした。
PARASOPHIAは、多様な表現や思考と出会う場であり、異質なものを容認し、排除ではなく敬意ある距離感を見つけていく経験のプロセスです。既に知っていることを再度確認する場=娯楽/エンターテインメントではなく、参加作家と鑑賞者の双方を巻き込みながら、10年後、20年後の文化資産に繋がる、思考と創造の継続的で世界に開かれたプラットフォームを京都に根付かせることを目指します。
- アーティスティックディレクター
- 河本信治
PARASOPHIA
パラドクス、パラソル、パラシュート、パラフレーズ、パラノイア、パラメーターなどのように「別の、逆の、対抗的な」という意味を持つ接頭辞であるparaに叡智や学問体系を意味するsophiaという単語をつなぎあわせた造語。この言葉には、京都は消費の都市ではなく知や文化の創造の場であり、その装置なのだという想いを込めています。